お洒落をすることは「恥ずかしいこと」だと思っていた話

自分の器量がそこまで良くはない、ということを自覚したのは、いつ頃からだっただろうか。

 

はっきりとした思い出として残っているのは、小学校の高学年。友達と保健室の先生と3人、廊下でお喋りをしていた。その友達はとても可愛らしく、更には線の細い子だった。そんな友達を見て、保健室の先生は「○○ちゃんは骨格から細くていいわよね、私たちはどう頑張ってもそうはなれないもの、ねえ?」と私に振ってきた。

 

その保健室の先生だって、特段ふくよかだったわけではない。それに、顔立ちだって『保健室の先生』然としていた。有り体に言って綺麗で美しかった。そんな先生と、私が、同じ土俵で友達を羨ましがる、ということがなんとなく先生に申し訳なく思えて、曖昧に微笑みながら同意したことを憶えている。

 

 

 

 

 

体型もコンプレックスだった。中学生の頃から夜遅くまで本を読むようになり、そうなるとどうしても腹が減ってしまい、スナック類をつまみながら読書をするのが癖になってしまった。その結果として、身体はどんどんと脂肪を蓄えた。

 

特に私は下半身、お尻に肉が付きやすい体質だ。そのことを、中学から高校にかけてたくさん「いじられ」てきた。

 

正直あまり良い思い出ではないし、思い出したくもない言葉をたくさんかけられてきた。

 

言われていることは事実だし。私は太っている。お尻が大きい。顔も不細工。笑われる存在だ。

 

この期間、そういう風に自分自身の心に刷り込むようにしていた。そうしていないと、心が壊れてしまいそうだったから、というのは今だから思える後付だろうか。ほとんど無意識の内にそういう風に考えようとしていたのかもしれない。

 

こんな私のようなものが、自分を着飾るようなお洒落をするなんて恥ずかしい。元々の素材が悪いのだから、どんなに取り繕ったって無駄だ。恥の上塗りだ。やめてしまえ。

 

そうして大学生になった私は、本当に最低限度の服を着て、化粧も碌にしない生活を送るようになった。

 

長年に亘って自身にかけていた『自己暗示』のおかげか、自分が醜いということに対してそれほど悲観することはなくなっていた。だって、事実だから。それが当たり前で、持って生まれたものを今更悲しんだところで何も変わらないし。身長が高い人がいたり、目が青い人がいたり、同性を好きになる人だっている。そういったものと同じようなものだ。

 

社会人になってからもその意識はかわらなかった。自分を着飾るため、ではなく、「最低限の社会人として」化粧をして、ジーパンにTシャツ、肌寒くなればパーカーで毎日勤めていた。

 

 

 

こうして私の中で「不細工で太った私のようなものがお洒落をしたところで何も変わらない、むしろお洒落なんてすれば世間から笑われるだけだ。ブスはブスなりに分相応な格好をしていればよい」という考えが凝り固まっていった。

 

 

 

 

 

何がキッカケかと言われたら曖昧なのだが、おそらくあの日だろう、という日がある。定期に会う友人2人から遊ぶ約束の前日、こんなLINEが届いた。

 

 

 

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そうして当日、私の顔は彼女らによってパレットと化した。2人が持ち寄った化粧品を次々と塗られた。また無造作ヘアをとうに超えて伸びに伸び切った髪の毛を、なにやら「ふわっ」とさせられた。終いにはタンスから私でも着られそうな服をいくつか見繕ってくれ、着るよう命じられた。

 

そうして完成した私は、なんというか、自分でも驚くほどにいつもの私ではなかった。いつもは見るのも嫌だった鏡を、じろじろと眺めることができた。ぼんやりではあるが、「変われるのかもしれない」と思った。

 

 

 

時期を同じくして、好きなバンドができた。特にそのバンドの中で、私が一番好きなメンバーはえらいかっこよかった。恐ろしいかっこよさだ。なんせべらぼうにかっこいい。とんでもない、人類の最終到達点とも言っても差し支えないくらいかっこいいのだ。

 

当人を褒めるのはこれくらいにしておく。なにしろかっこいいその人を見ていると、なんだか「こんなかっこいい人を好きでいるには、もっと自分もしゃんとしなければいけない」という気持ちが湧いてきたのだ。

 

何もその人の好みの女になりたいだとか、彼女になりたいというわけではない。ただ、完璧なかっこよさを持つその人を好きでいるには、遠くから見ているだけの私ですら少しは小綺麗でいなければ釣り合わない、その人に失礼なのでは、という謎理論に到達した。モチベーションが自然と生まれてくれた。

 

 

 

そうして、このコロナ禍ときた。休みの日に家にいるしかなくなり、何か始めようと思ったところ、なぜか「ダイエット」が思い浮かんだ。毎日規則正しく生活をすることができていたので、夜更かしをして腹を空かせることもなく、また時間もあるので筋トレやウォーキングなどもすることができた。

 

 

 

これくらいになってくると、私が持っていた「お洒落は恥ずかしい」という考えは崩れつつあった。お洒落をしている自分が変わっていっているのが目に見えてわかって、鏡を見ることが楽しくなってきた。

 

キッカケを与えてくれた友人たちは良きアドバイスをたくさんくれた。「髪染めて前髪作れば?」「こういう化粧品がオススメだよ」「いらない服があるからあげるよ」

 

また、少しずつ変わっていく私をたくさん褒めてもくれた。今まで外見のコンプレックスだらけで、人からからかわれ笑われたりこそすれ、褒められることなどほとんど初めてだった。とてもくすぐったい気持ちで、どんな反応をすれば良いのかわからなかったが、本当に心から嬉しいと思った。どんな風に褒めてくれたかは、あまりにも嬉しく誰かに教えるのが惜しいくらいなので、私の心の内だけで留めておくことにする。

 

 

 

外見が変わると、私の心境もどんどんと変わっていった。今まで周りに対して「私は不細工なので…」と一歩下がった、気後れした態度で接していたが、やっと人並みのスタートラインに立てた気がした。必要以上に縮こまることなく、普通に対話をすることができるようになれた。

 

少し嫌なことがあったとしても、「それでも私の足の爪は今とても可愛い色をしているんだ」と思うと、心がふわっと軽くなった。パーマだってかけている。目元のアイラインだって上手く引けている。そう思うだけで、背がしゃんと伸びて頑張れた。

 

 

 

先週は、眼科に行って初めてコンタクトを処方してもらった。目に物を入れるだなんて、と思っていたが、眼医者さんに教わりながら付け外しの練習をすると意外と簡単に装着することができた。何より、カラコンなので目が大きくなれる。すごい。

 

しかも練習中、眼医者さんが「元々目が大きいから付けるのもそんなに大変そうじゃないですね~」と言ってくださった。そうなんだ、と思った。私は目が大きいのだ。お世辞だとしても嬉しい。

 

今日はダイエットのモチベーションを上げるため、体重計を買った。今まで恐ろしくて体重を量ってこなかったのだが、意を決し乗ってみると、1年半前に比べて9キロも落ちていた。にわかには信じられなかったのだが、何度乗りなおしても数値は変わらなかった。体重計が不良品でもない限り、ダイエットの成果が出ているのだろう。確かに私は変わることができている。

 

 

 

こんな私だけど、20代も後半に差し掛かろうとしているけれど、やっとお洒落をすることの楽しさに気づけた。今は本当に毎日が楽しい。

夜の本気ダンスについて本気で考えてみた

悲しいことがあった。

 

本当に本当に悲しかった。悔しい、という表現のほうが適当だったかもしれない。どちらにせよ、涙が溢れて仕様がなかった。早く寝て忘れてしまいたかったが、目を閉じても瞼の裏が熱く、なかなか寝付けなかった。

 

次の日になっても悲しみは消えなかった。むしろ、悲しみだけでなく憎み、怒りの感情も顔を出した。そんな自分自身に対して落ち込みすらした。

 

 

 

そうして、好きなバンドのファンを辞めたい、と思った。

 

 

 

どうしてそのような考えに至ったのか、そもそも何がそんなに悲しかったのかなどの経緯は詳細に記すつもりはない。ただ、漠然と「ファンを辞めたら今の苦しみから解放されるのかな」と思ったのだ。

 

(誤解のないようこれだけは書いておくが、悲しみの原因がバンドのメンバー、その他関係者の言動などにあったわけではない。あくまで私個人の話なのだが、バンドが全くの無関係ということでもない、とだけ)

 

悲しい出来事から幾日かが経ち、いくらか気持ちが落ち着いた。落ち着いたあとで、あれほど大好きだったバンドのファンを辞めたいなどと一瞬でも頭を過ぎった自分に対して驚いた。けれど、そんな考えが浮かんだことは紛れもない事実だった。

 

ファンを辞めたい。ファンというものは、辞めようと思って辞められるのだろうか。私が大好きなバンドに対する想いは、そんな軽いものだったのだろうか。

 

良い機会だ。幸いこのご時世、家でゆっくりできる時間はたくさんある。ここで一つ、私が大好きなバンド、『夜の本気ダンス』について、本気で考えてみようと思う。

 

 

 

夜の本気ダンス、通称『夜ダン』とは昨年の2月、とあるバンドを目当てに赴いたフェスで出会った。私は邦ロックのフェス自体が初めてであり、その目当てのバンド以外については詳しくなく、タイムテーブルを見ても知らない名前ばかりだった。

 

夜の本気ダンス』。目当てのバンドの上に並んでいた。名前自体は聞いたことがあったかもしれない。ただし、どんなメンバーがいて、どんな曲があるのかは一切知らなかった。

 

フェスというものは、バンドが自分たちの出番前にステージ上に上がり、客の面前でリハを行う。当時はその文化に驚いたことを覚えている。

 

余談だが、メンバーが最初に登場するリハでは感動をぐっと堪え、一度袖に下がって本番で再びステージ上に帰ってきたときに初めて大きな歓声で迎える文化が私は好きだ。建前があって良い。

 

話を元に戻す。御多分に漏れず、夜ダンも出番前にまずリハを行ったので、私はそこで初めて彼らを目にすることとなる。

 

第一印象は「異様だ」と思った。少しだけ「怖い」とも思った。

 

一番に目についたのはボーカルの米田さんだった。ストライプのシャツにネクタイ、長く細い足が際立つ黒いパンツ。髪はかっちり七三に分けられており、黒縁の眼鏡をかけていた。

 

他のメンバーも皆同様に派手なシャツに黒いパンツスタイルで合わせており、統一感があった。知的でオシャレな空気が漂っていた。「シュッと」していた。私は「身近にいたら気後れするタイプの人たちだ」と思った。

 

この人たちは、一体どんな曲を歌うのだろう。リハと本番の僅かな時間を使い、ネットで夜ダンを検索した。「“夜”も昼も聴く者全てを“本気”で“ダンス”させる」という一文が目に入った。ダンスさせる…?そうこうしている間に彼らの入場SEである「ロシアのビッグマフ」が流れ出した。

 

 

 

ライブが始まった。そう思ったら、もう終わっていた。

 

 

 

そうとしか表現できないほど、一瞬で時間が過ぎ去った。嫌になるくらい使い古された「楽しい時間はあっという間」という言葉は本当だったのだと、このときほど身をもって体験したことはない。

 

私には音楽的な知識がない。彼らの音楽について詳しく解説し、ここがこうでこうだから良い、などと御託を並べることはできない。だけど、そんなことはどうでもいい。

 

「好きだ」。「私は好きだ」。それだけで良かった。それ以外にどう表現すればいいというのだ。

 

彼らの奏でる音の一切合切何もかもが好きだと感じた。初めて聞いた曲なのに。それなのに、どうしても心が震え、腕が勝手に上がり、自然と声をあげていた。

 

「本気でダンスさせる」という表現の意味がわかった。音楽に合わせて、身体を動かす。それは立派なダンスだ。彼らの曲にはそうさせる力があった。もはや抗うことなどできない、ある種の強制力を持って私に襲い掛かってきた。あんな音を聞いたら、踊らずにはいられないではないか。

 

「出会ってしまった」、という大きな感慨を抱えて帰路についた。家に帰るなり、YouTubeで夜ダンを調べた。まず出てきたのは、ライブ中にも演奏された『fuckin’so tired』のライブ映像だった。

 

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この曲は冒頭、米田さんが「カモン、ファッキン!ファッキン!ファッキン!」という掛け声と共にネクタイ緩め、「fuckin’so tired」と曲名をコールすると同時にネクタイを外し放り投げる。また、両サイドを固めるベースのマイケルさん、ギターの西田さんが同時にお立ち台に上り、ドラムの鈴鹿さんの力強いビートが曲の勢いを加速させる。

 

これまでに私が観に行ったライブでもほとんど欠かすことなく演奏される曲だが、この始まり方は何度見ても胸がドキドキする。彼らの見た目、音楽性を最大限に生かした、なんとドラマチックな冒頭なのだろう。

 

繰り返される「fuckin’so tired」という歌詞、「クソ疲れた」とでも訳せばいいのだろうが、ボーカルの米田さんは疲れを知らないように踊りながら歌う。また、煽る。

 

私は米田さんの煽りが大好きだ。「踊れる準備はできていますか?」「楽しんでいますか?」「本気でダンスしていますか?」「自由に踊ってください!」「僕たちのロックを味わってください!」常に敬語だ。見た目の通り、とても真面目な方なのだと思う。真面目にロックをしている。アルバム『Fetish』の『Forever Young』という曲に「真面目ちゃんだけどロックスターさ」という歌詞があるが、本当に彼にピッタリな表現だ。

 

そんな真面目な彼が、まず先頭を切って誰よりも楽しそうに踊っている。足を高く上げる。ステップを踏む。腰をくねらせる。そんな姿を見ると、「自由でいいんだ、楽しんでいいんだ」と、本能的に許された、と感じた。

 

fuckin’so tired』以外の映像も見た。やはりどの曲も奇跡のようにかっこよかった。何度でも聞いていたい、何度聞いても飽きないフレーズのオンパレードだ。

 

 

 

次に夜ダンのライブを見に行ったのは、3か月後の5月だ。少し時間が開いたのは、好きになるのが怖かったから。もう一度あんな体験をしてしまったら、本当に好きになってしまう。後戻りできなくなってしまう。そんな思いが私を躊躇させていた。だけど、もしかしたら勘違いだったのかもしれない、確かめよう、と恐る恐る行くことにした。

 

初めて見たときのフェスよりも少し規模の大きな野外フェスで、たくさんの人が夜ダンの音楽で踊っていた。もうすぐ発売されるアルバムから新曲も披露された。好きだ。大好きだ。ライブ中、何度も何度もそう思った。

 

後戻りなんてできるはずがなかった。2度目のライブで確信した。私は、夜の本気ダンスが、好きだ。こんなにも音楽を楽しませてくれる人たちを他に知らない、こんなにも楽しく体が動かせるライブなんて他にないと思った。そんなバンドに出会えるなんて奇跡だ。

 

それからは、何度も夜ダンのライブに足を運んだ。フェスだけでなく、ワンマンや対バンへも行った。ツアーもできる限り地方でも行った。それほど、好きなのだ。

 

 

 

どうしてこうまで彼らのライブに惹きつけられるのだろう。先述した通り、私には音楽的な知識は皆無だ。それでもどうにか言葉を絞り出して言語化を試みたい。

 

まず、同期音源を使っていないという点を挙げたい。即ち、彼らは彼ら4人が奏でる音のみで会場を踊らせているのだ。決して同期音源を使っているバンドを非難したいわけではない。ただ、その場にある楽器とメンバーの声のみでパワフルで骨太なサウンドを作り出せるということに私はたまらなくかっこよさを感じてしまう。

 

印象に残ったライブがある。ライブの1曲目の途中で西田さんのギターの音が出なくなってしまうというトラブルが発生したのだ。米田さん、鈴鹿さん、マイケルさんの3人は顔を見合わせ、頷き合いながら、いっそ面白がるような表情で曲を引き延ばして演奏を続ける。その間に西田さんは冷静にスタッフさんへ指示を出し、無事にギターの音が復活した。それを確認した3人は、西田さんとも呼吸を合わせ、何事もなかったかのように曲を再開させたのだ。

 

なんてかっこいいバンドなのだろう、と思った。音が出なくなるくらいのトラブル、彼らにとっては何でもないことなのだ。なぜって、音を出しているのはその場にいる彼らなのだから。スタジオでジャムるように、自然に演奏を続けることができるのだ。バンドとしての強さが感じられた。

 

また、彼らのライブには「HONKI DANCE TIME」と呼ばれる時間がある。1曲が終わってもビートを途切れさせることなく、次の曲へ、また次の曲へと、まるでDJのように繋げて演奏するのだ。まさに本気で踊れる時間だ。

 

常に演奏が鳴りやまないこの時間で、中でも休むことなく演奏しているのは間違いなくドラムの鈴鹿さんだろう。髪を振り乱し、肩をいからせドラムを叩き続ける。ドラムの音だけで次の曲の期待感が増し、身体が跳ねずにはいられなくなってしまう。

 

華があるドラムだな、と思う。シンプルなビートなのだが、力強くパワフルなのでドラムだけ聞いていても楽しい。

 

ちなみに、MCで誰よりもたくさん喋るのは鈴鹿さんだ。ボーカルよりも喋る。またハモリのパートも多い。Creepy Nutsとのコラボ楽曲『Movin‘』では、音源ではR指定さんが歌うラップ部分を鈴鹿さんが担当している。もちろんドラムを叩きながらだ。忙しいドラマーだ。

 

楽曲を支えるリズム部隊のもう1人、ベースのマイケルさんは「イケメン」だ。端正な顔立ちというだけでなく、立ち居振る舞いがかっこいいのだ。低めの位置でベースを鳴らし、少しオラついた表情で客席を見下ろし、そうかと思えばニコニコの笑顔で両手を振る。ステージ上の彼の姿を見た女性は恋に落ちる錯覚を覚えてしまうのではないだろうか。

 

もちろんベースの演奏自体もとてもかっこいい。繰り返されるフレーズを支える低音がとても気持ちよく、その気持ちよさに身を任せるようにして体が揺れてしまう。

 

ギターの西田さんは無表情で淡々と職人のように演奏する。だが乗ってくると足を大きく開脚したり、背面をのけぞらせたり、ハイキックをしたり、お立ち台の上でしゃがみこんだりと、天性のロックスターのような動きを見せてくる。

 

特にギターソロでは「俺を見ろ」とでも言いたげな表情でお立ち台に上がり、顔を歪めながら一心不乱にギターをかき鳴らすのだ。見ていて胸が締め付けられるほどかっこいい。

 

ボーカルの米田さんについてはもう既に語ってしまっているが、もう一つ、その特徴的な声についても押さえておきたい。少し鼻のかかった甘い声は一度聞いたらなかなか頭から離れない。夜ダンのスタイリッシュな楽曲によく合っている。

 

夜ダンの楽曲は全て米田さんが作詞を行っているが、その歌詞の内容云々は置いておいてまず「耳心地」がとても良い。意味を理解せずとも、その言葉の音がとても良いのだ。これは極論だが、米田さんの声は一つの「楽器」だと思っている。私が日本語を理解できない外国人だったとしても、きっと米田さんの歌に魅了されてしまうのだろう。

 

 

 

夜ダンのライブの魅力を、と思っていたが、だんだんと各メンバーの魅力を語ってしまっていた。だけど、夜ダンはこの4人だからこそかっこいいのだ。この4人がステージ上で音を奏でるから、私は無心で踊ることができるのだ。本当に、奇跡のような巡り合わせだと思う。

 

最後に夜ダンのライブに行ってから、そろそろ4か月が経とうとしている。その間にもメンバーは積極的に配信を行ったり、リモートでセッションを行ったりと、積極的にファンを楽しませようとしてくれている。だけど、そろそろ、そろそろ辛い。早く夜ダンの音楽を体で浴びたい。あの信じられないくらい幸せな空間で思い切り踊りたい。あんな喜びがあることを知ったあとで、それがない生活の味気無さたるや。

 

もはや後戻りなどできそうもない。私は芯から夜の本気ダンスのファンになってしまったのだ。彼らが音を鳴らす限り、音楽を途切れさせない限り、ファンを辞めるなんてことは不可能だ。

 

夜の本気ダンスが、そして夜の本気ダンスのライブが大好きだから。